Liber specialis lectionis

西洋中世の歴史、宗教、文化を中心とした読書日記

【文献紹介】エラ・ジョンソン『これはわたしの体である:ヘルフタの大ゲルトルートの著作における聖体の神学と人類学』

Ella Johnson, This is My Body: Eucharistic Theology and Anthropology in the Writings of Gertrude the Great of Helfta, Collegeville, 2020.

 

 

 著者のエラ・ジョンソンはアメリカ合衆国アイオワ州のセント・アンブローズ大学神学部の准教授。西洋中世のキリスト教神学とジェンダーを研究テーマとしており、中でもヘルフタのゲルトルートについて多くの業績を発表している。

 

 ヘルフタ修道院には幻視で有名な3人の女性著作者がいる。本書はヘルフタのゲルトルート(1256~1301/02年)に焦点をあて、そこで描かれる聖体について考察する。ゲルトルートについては、もっとも新しい研究の1つ。

 ゲルトルートの著作としては『神の愛の使者』が有名だが、全5巻のうち本人が書いたのは第2巻のみであり、残りの4巻は単数もしくは複数の無名修道女の手になることが判明している。史料として『神の愛の使者』を分析する場合、第2巻のみが対象となることが多かったが、2000年代以降の研究者は以下のどちらかのアプローチを採用することになる。

① ゲルトルート自身の神学に焦点を当て、『神の愛の使者』第2巻ともう一つの真筆である『霊的修養』を横断的に論じる

②『神の愛の使者』にある記述のぶれに着目し、「ヘルフタ修道院」という共同体内で言説が形成されていった過程を読み解く

 この本は1のアプローチを取り、『神の愛の使者』と『霊的修養』で聖体がどのように描かれているかを検証する。

 

 内容は次の通り。

1.ヘルフタのゲルトルートとその著作

2.ヘルフタ修道院

3.霊的感覚をめぐるゲルトルートの教義

4.「わたしの記念としてこのように行いなさい」:儀礼、想起、読書

5.「これはわたしの体である」:人性と神性の象徴としての女性

6.文脈の中のゲルトルート:二元論に固定された差異への挑戦

 

 最初の2章は、現段階の北米におけるヘルフタ研究の最前線がコンパクトにまとめられて有益。3章以降が本格的なゲルトルート研究となる。

 全体的な主張としては、バイナムやニューマンらの1970年代からの業績を引き継ぎ、ゲルトルートがキリストの人性をめぐる理論をどのように作り上げていったかをさらに詳しく検討している。それによると、ゲルトルートはオリゲネス、アウグスティヌス、ベルナール、サン・ヴィクトル学派の影響を強く受けている。その中でゲルトルートは神性・人性、男性・女性といった二項対立の図式を解体し、女性が神学に関与する機会を作り出した。例えば、キリストの心臓である聖心崇敬においてはイエスと自分の心臓を交換する幻視を見ることで文字通り一体化し、人性(もしくは身体性)を通じての救済が可能であると論じた。これは、身体の上位に霊が置かれてきた価値観にあっては、革新的な考えとなる。

 ジョンソンの指摘で新しいものとしては、

・人称の詳細な分析から読み解くジェンダー概念。ヘルフタの女性たちが、中世で一般的なジェンダーロールに縛られていなかった点はしばしば指摘されている。ジョンソンによると、ゲルトルートは場面に応じて自らを女性と男性(もしくは聖職者に近い存在)、両方に書き分けている。キリストが女性として描かれるだけではなく、女性が男性を自称することをはっきり論じている研究は珍しい。

・サン・ヴィクトル学派の影響の指摘。作品内の引用に誤りがあったり(ユーグとリシャールの取り違え)、サン・ヴィクトル学派自体についての研究がそれほど進んでいないこともあり、ヘルフタでの受容についてはあまりわかっていない。しかし、従来の研究に比べると、この点が重視されている。

 

 神学面でのアップデートを知るには有益。ただ、歴史学での修道院研究の成果はそれほど反映されていない。近年の歴史研究によると、女子修道院はこれまで考えられていたほど閉鎖性が高くなかったようなので、「社会と完全に没交渉だったことによるジェンダーへの無知」という前提がどこまで通用するのか、再検討が必要だろう。