Liber specialis lectionis

西洋中世の歴史、宗教、文化を中心とした読書日記

映画:「ねじれた家」

 映画「ねじれた家」がミステリーチャンネルで放送されていたため視聴。原作はアガサ・クリスティの同名作品、監督ジル・パケ=ブレネール、主演グレン・クローズ、製作は2017年。


アガサ・クリスティーの世界/映画『アガサ・クリスティー ねじれた家』特別映像

 

 あらすじ。元外交官で現在は私立探偵チャールズ・ヘイワードは以前の恋人ソフィア・レオニデスから依頼を受ける。大富豪だった祖父、アリスティド・レオニデスの急死に不審を抱き、真相を解明してほしいというのだ。それに応じてレオニデス一族が住む「ねじれた家」を訪れるチャールズだが、強烈な性格の住人たちは誰もが怪しく見えて・・・。

 

 結論から言うと、原作がクリスティでも映画はまったくの別物で、オープンエンドの恋愛映画である。なので、ミステリーが好きで「クリスティの最高傑作」の呼び文句に魅かれて見る人はがっかりするかもしれない。

 私がこのように判断した最大の理由は、映画版では事件と平行して、原作とは異なる過去の2人の恋愛がフラッシュバックで挿入され、チャールズとソフィアの関係性が強調されているからだ。だから、2人がなぜ「元恋人」という微妙な関係になったのかはよくわかるのだが、最後は映画自体が唐突に終わるため、これからどうなるのかはまったく予想がつかない。

 

 先のことがわからない幕切れは、この映画のミステリーとしての側面に決定的な影響を与えている。私が読む限り、通常、クリスティは1つの作品の中で同じ事件を3回、異なる角度から語り直す。

1. 事件そのもの。基本的には進行中の出来事なので、探偵は試行錯誤を繰り返す。

2. 謎解き。ポアロのように、関係者全員を集めて事件の背景から犯人の逮捕までが同じ場所で行われるのが典型。

3. オチ。事件が関係者にどのような影響を与えたのかが語られる。

その観点から見ると、この映画には3がない。これが大きな問題なのは、事件の犯人が誰とされるのかのヒントが得られないからである(犯人が誰かについては、疑問の余地はない)。「ねじれた家」には真犯人とそれをかばおうとする人物が登場するので、あくまで真相を公表して大騒ぎを巻き起こすのか、曖昧な決着をつけるのか、探偵が決断しなければならない。しかし、映画では探偵役のチャールズとソフィアの関係にはっきりとした結論を出さないことにしたために、一連の事件の意味付けも消滅する羽目になってしまった。すると、ストーリー全体では単に謎を解いただけであり、ある種の試練を経たことで大人になるはずの登場人物が成長したのか、観客にはよくわからない。

 もちろん、ミステリーは成長譚ではないので、最後の点は不要ともいえる。しかし、クリスティは事件による心理的な変化を描くのがきわめて巧みな作家であるため、見る方としては無意識に期待してしまい、映画が中途半端に終わった印象を持つことになる。

 

 これは脚本のジュリアン・フェロウズの書き方に問題があると思う。フェロウズは「ゴスフォード・パーク」でアカデミー脚本賞を取っており、「ねじれた家」も家族同士がいがみ合う場面などはえげつなくてよいのだが、ミステリーは苦手に見える。その最たるものがドラマ「ダウントン・アビー」のベイツだ。私はこのドラマの後半が苦手なのだが、その理由はグランサム伯爵の従者ベイツは殺人事件に巻き込まれたり、刑務所に入ったりしているが、あまり懲りた様子がなく、大抵はそのつけを払ってひどい目にあうのがパートナーのアンナだということにある。なのでフェロウズはアンナが嫌いなのかと思っていたのだが、「ねじれた家」を見る限りは別の原因もあるようだ。