キム・ナムジュ(斎藤真理子訳)『82年生まれ、キム・ジヨン』筑摩書房、2018年。
これは私の専門とは直接関係のない本だけれど、2019年3月16日付朝日新聞の広告にあった古市憲寿氏の感想にあまりにも驚いたので、一言書いておく。
TwitterやInstagramの投稿はこのコメントの後半部分と対応しているが、私が違和感を感じたのは前半にある「登場人物が、理不尽さに甘んじることなく、自らの手で成功を摑んでいく様子は痛快だ」という部分。もちろん本を読んでどのような感想を持つかは個人の自由であり、尊重されなければならない。そして、それを表明することは表現の自由として保証されている。加えて私は歴史家として訓練を受けており、テクストの解釈が人によってどれほど異なるか、全く無知なわけでもない。しかしそれでもなお、「本当に同じ本を読んだのだろうか?」という疑問を抑えきれない。
なぜなら、この本は引用箇所が示唆するような成長物語ではないからだ。キム・ジヨンあるいは周囲の人が理不尽さを訴え、待遇の改善を勝ち取るエピソードは確かに存在する。例えば、給食を食べる順序で入れ替えを勝ち取った時だ。しかし、その結果はバラ色ではなくジヨンにとって給食の時間は憂鬱なままだ。
大学、会社、結婚生活…年齢を重ねるにつれ、問題は深刻になる。ジヨンがいくらがんばって自分なりに成功を収めても、その先には必ずもっと成功した人がいるからだ。それが男性である。
ジヨンの夫は「いい人」だが、彼をもってしてもジヨンが壊れるのを止められない。周りでもっと強力な破壊力が働いているからだ。それが「社会」という枠組である。枠組は必要かもしれないが、中に収まりきれない人が常にいることを忘れてはならない。そして、この本では(そして日本でも)、女性つまり人口の半分は多くの場合問答無用で枠組の外に押し出されてしまう。これは、あまりにも多すぎるのではないだろうか?
キム・ジヨンが、末尾に登場する「妻」がどんな「成功」を摑んでいるというのか。
私にはそんなものがあるとは思えなかった。ただ自分の経験のいくつかが言語化されていることに驚き、絶望し、他の人と共有できるものがあることを知った。けっして、痛快ではなかった。