Liber specialis lectionis

西洋中世の歴史、宗教、文化を中心とした読書日記

テューリンゲンの聖エリーザベト紹介(4):ヴァルトブルク城前編

 テューリンゲンの聖エリーザベトについて。今日はヴァルトブルク城です。

 1999年に世界遺産に登録されたヴァルトブルクはテューリンゲン州アイゼナハにある山城で、当時、テューリンゲン方伯だったルドヴィング家の居城として11世紀頃に建てられました。現在行く人は山のふもとまでは車やバスが使えますが、城に入るにはそこから延々と山道を登っていかなければなりません。

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ヴァルトブルク城

 外見は中世風の地味な造りですが、内側にはまったく別の世界が広がっています。ここは観光地のため、写真撮影にはかなり制限があります。なので、興味のある方はヴァルトブルク城公式のバーチャルツアーをどうぞ。

www.wartburg.de

 

 この城は3つのセールスポイントがあります。

  • テューリンゲンの聖エリーザベト
  • マルティン・ルターによる聖書のドイツ語翻訳
  • ブルフェンシャフト

 

 特に大切なのが上2つです。2007年にはテューリンゲンの聖エリーザベト生誕800年周年記念、2017年には宗教改革500周年記念……と次々と関連する周年記念が来るからです。このような記念の年のたび、長期間にわたって大規模な展示会やイベントが開催され、ヴァルトブルクには数十万人の観光客が訪れます。私は、2031年には聖エリーザベト没後800周年記念が大々的に行われるのではないかと考えています。

 

 テューリンゲンの聖エリーザベトの義父にあたる方伯ヘルマン1世の治世(1190~1217年)において、この城は中世宮廷文化を代表する存在となりました。その象徴とされるのが、当時の著名な歌人6人を集めて開催されたという「ヴァルトブルクの歌合戦」ですが、この6人の歌人たちは実際には年代の微妙なズレがあり、後代に創作された伝承であることがわかっています。

 聖エリーザベトはこのような宮廷文化とは対照的な人物でした。宮廷風恋愛には興味がなく夫一筋で、宴に出ると「この食べ物はどうやって調達してきたのか」と質問し、しょっちゅう教会に行っては祈っている……。同時期に宮廷にいた人にとっては、聖人にならなければ完全な変人という評価のままだったでしょう。もっとも、彼女自身は政争に巻き込まれるのを避けるため、あえて信仰心をアピールしていた面もありそうです。

 聖エリーザベトは24年間の生涯のうち、かなりの期間はこの城で過ごしたようですが、具体的な数字はわかっていません。中世の君主は領内を移動して統治を行っており、エリーザベトとルートヴィヒの夫妻は可能な限り、一緒に行動していたようです。

 とはいえ、中世の間に聖エリーザベトの名とヴァルトブルクが結びつけられることはほとんどありませんでした。夫であった方伯ルートヴィヒ4世が死去すると、エリーザベトは新方伯によりこの城から追放されます。その後でマールブルクに転居し、この都市が聖エリーザベトの聖遺物をもつ巡礼地として繁栄しました。ヴァルトブルクはテューリンゲン方伯位をめぐる継承戦争を経て方伯領が分割されると、テューリンゲンの境界に位置する城として、その重要性は次第に低下しました。

 

 ヴァルトブルク城の名前が次に歴史に登場するのは、16世紀の宗教改革期に入ってからです。それについては、次回に書きます。